20040416句(前日までの二句を含む)

April 1642004

 棟上げや春泥をくる祝酒

                           鶴田恭子

語は「春泥」。家の新築は、一世一代の大事業だ。作者の家の新築か他家のそれかはわからないが、句の全体に滲んでいるのは、新築主の誇らかな喜びである。苦労の果てにやっと「棟上げ(むねあげ)」にまで辿り着いた安堵心と達成感とが、春泥の道を運ばれてくる「祝酒」を通して、婉曲に表現されている。施主にしてみれば「やったぞ」と誰かれに叫びたいくらいの気持ちではあろうが、そこをぐっと抑えるのが美徳というものだ。ひとりでにこぼれてくる笑みを噛みしめるようにして上げた目に、春の泥道が嬉しくもまぶしく光っている。たとえ他家の棟上げであるとしても、作者にはその心中がよく理解できるので、素直にともに寿ぐ気持ちがこう詠ませたのだ。棟上げといえば、私の子供のころには餅や小銭を投げあたえる風習があり、出かけていくのが楽しみだった。これもまた建築主の喜びの表現だったわけだが、しかしこの風習自体にはもっと教訓的な意味もあったようだ。最近読んだ中沢正夫(精神科医)の『なにぶん老人は初めてなもので』という本に、こんな記述がある。ローン制度のないころだから、新築のためには若い頃からコツコツと金を貯めなければならない。だから、新築は晩年の大事業であり、人生の総決算みたいなものだった。「大きな立派な家を建てることが、自分がいかに質素倹約誠実に生きてきたか、それまで不便や不自由に耐えてきたかを世間に披露することでもあった。餅を拾って食う子供たちにも、これを建てた人の生き様--ひたすら備え、不便に耐えてきたことが他の大人から聞かされた。オレもいつか、こういう大きな家を建てようと子供心にも思ったものである」。すなわち、備える耐えるが庶民の美徳の第一とされた時代ゆえの餅まきだったわけで、そう考えると、ローン時代にこの風習が消えたことの意味も判然としてくる。『毛馬』(2004)所収。(清水哲男)




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